27歳では死ねなかった

『27歳では死ねなかった』という物語を投稿します。

12月の海とホームシックブルース


「あの時、実は起きてたでしょ」
僕は動揺を悟られない為に、出来るだけ瞬きをしないようにしながら、奥川を見た。
「なんのこと?」
ザザッと大きな音を立てて波が引く。12月の潮風は毎日よりもよっぽど冷たくて、ライダースジャケットの下にセーターを着てこなかったことを少しだけ後悔した。
海を見にいこう、と奥川から連絡があったのは今朝の7時頃の事で、会社も辞めて時間があった僕は、その誘いに乗った。彼女に会うのは夏の渋谷のラブホテル以来だった。僕らは渋谷で待ち合わせをして、いくつかの乗り換えを経て、京浜急行久里浜線に乗り、三浦海岸に着いた。真冬の海がロマンチックなのは映画の中だけの話で、現実はただ寒いだけだ。観光客も遠のく冬場の海岸は、ろくに清掃もされておらず、其処此処に空き缶や煙草の空箱が転がっている。日差しは暖かかったが、一瞬の陽気を赦さないと言わんばかりの北風が吹く。その度、彼女の栗色の髪が揺れた。栗色のコートと赤いスカートに身を包んだ彼女が真っ直ぐに僕を見返し、口を開く。
「ホテルを出る時、私は君にキスをしたんだけど、君は起きてたよね。寝たふりをしてたでしょ」
「寝てたよ」
嘘をつく。強目の北風が吹いて、ビニール袋が宙を舞った。背伸びをした彼女が僕の後頭部を掴み、グイと自分の方に寄せる。4ヶ月ぶりに、僕と彼女の唇が重なる。
「君は隙だらけだから」
彼女が悪戯っぽく笑う。沙良の時は拒んだのに、奥川は簡単に壁を破壊してくる。
「本当は、狙って隙を見せてるんじゃないの?君はズルい男だから」
「どうかな」
「ね、手繋ごうよ」
差し出された手をおとなしく繋ぐ。彼女の手は暖かった。冷え性だ、とハンを押したように申告する割に、女性の手はいつも暖かい。持ってくるように命じられて担いで来たアコースティックギターが、僕の背で何かを主張するように揺れた。
「今日は平日だけど、仕事は?」
「サボっちゃった」
彼女は目を細めて海岸線を見る。
「なんで?」
「海が見たくて。あと君に会いたくて」
「冗談はやめなよ」
「半分嘘で、半分本当。君に会いたくて会社をサボったというよりは、会社をサボる決意をしてから、君の顔が浮かんだ」
「海を見たかったっていうのは?」
「それは本当。だけどあんまり面白くないね。やっぱり寒いし、退屈」
「その退屈さが良いんだよ」
「そういうもん?」
「うん。真冬に海を見たって、思ったより退屈だし、思ったより綺麗じゃないでしょ。ゴミも散らかってる。だけどやっぱ、静かなんだよ。世界の終わりみたいで、落ち着くんだ」
「へえ」
ちょっと座ろうか、と彼女が言い、並んで岩場に腰掛ける。背負っていたギターバックを下ろすと、背中が急に冷たくなった。
「飲む?暖まるよ」
彼女がトートバッグから魔法瓶を取り出し、コップにお茶を注いだ。澄んだ12月の空気に、幸福な湯気が立ち上る。
「君は良いお母さんになるよ」
「どういう意味よ」
差し出さられたコップから、熱いほうじ茶を飲む。身体の内側から暖まる感覚がした。
なんか不思議な感覚だね、とコップを両手で包み込むように持った彼女がポツリと言う。
「平日の昼間にさ、君と二人で海を見てる」
「非現実的だね」
「非現実的でも、すっごく自然に現実なんだよね。私は会社をサボって、二度目の退職を済ませた君と海を見てる。真冬だよ。多分、私と君がホテルで一晩一緒にいた季節にはさ、この海岸は観光客で賑わっていたはずなんだ」
君風に言うとね、と彼女が続ける。
「たった4ヶ月で、世界は終わるんだよ」
「でもそのたった4ヶ月で終わった世界で、君は仕事をサボって、俺は会社を辞めた。ちゃんと世界は動いてるよ」
黙って頷き、コップを傾ける彼女はとても小さく見える。コップが口につく瞬間、白い空気が湯気なのか、それとも彼女の吐息なのかわからなくなる。入り混じっているのに混じり気のない白が、僕はなんとなく好きだった。
「ね、私のために一曲作ってよ」
「無茶を言うね。言われてホイホイ曲を作れるなら、俺は今頃プロになってるよ」
「プロになるために仕事辞めたんでしょ」
「返す言葉もないね」
仕方なしにアコースティックギターを取り出す。K.ヤイリのアコースティックギターが潮風に触れる。きっと弦は錆びるだろう。
適当にA.D.E.Dとコードを繰り返し、歌メロを乗せていく。即興の割に、自然にメロディーが乗っていく。乱雑なアルペジオと、明らかに無駄なカッティング。最後にキーを一音上げて歌い切る。
「わー、凄いね」
奥川が覗き込んでくる。なんだか気恥ずかしかった。
「タイトルは?」
「渋谷のラブホテルとホームシックブルース」
「そりゃ紛れもなく、私のための歌だ」
奥川が愉快そうに笑う。
「でも歌って欲しいのは昔のことじゃなくて、今のことなんだよね」
「じゃあ、12月の海とホームシックブルース」
「どうしても家が恋しい訳だ」
「別にそういう訳でもないけどね」
言われてみればおかしな話だった。
「ホームシックブルースってなに?」
「ボブディランに聞いてくれ」
「ああ、あの歌下手おじさん?」
「そう、EXILEの方が上手いよ」
「でも私、あれからちょっと聴いてみたんだよね、歌下手おじさん。良い声してる」
「聴いたんだ、なにが好き?」
「ヘーイ、ミスタータンバリンマーンってやつが好き」
「ミスタータンバリンマンだね」
「そのまんまじゃん」
「君がそのまんまの部分を抜き出して歌っただけだよ」
なんとなく手持ち無沙汰で、手グセで適当なアルペジオを弾いていく。Cadd9、Am、FM7、G。いつか何かの曲に使った進行だったが、なにに使ったのかはさっぱり覚えていない。思いついては忘れていった沢山の作りかけのメロディーは何処に行ってしまったんだろう。
「ギターって楽しい?」
「楽しいよ」
「私も始めようかな」
「いいんじゃない」
僕らの上空を旋回していた大きな鳥が、歌うように去っていく。今でも、カモメとウミネコの違いがよくわからなかった。体温はすっかり奪われて、かじかんだ手でギターをしまった。このまま弾いていると、少し錆びた弦で指を切りそうだった。胸ポケットから取り出した煙草に火を付ける。冬の澄んだ空気の中では、音がクリアに聞こえる。普段は気にならない、爆ぜる音。白みを帯びた吐息と相まって、吐き出した煙はいつもよりも量が多い。もしも、と少しだけ考える。もしも僕の抱いたこのどうしようもない寂しさが煙だったら、きっとこの雲ひとつない青空が曇るくらいには白くて大きいだろう。
「俺は今でも、寂しそうに見える?」
「うん、見える。君はいつも寂しそうで、ズルい。大切にしている何かを失くしてしまったみたい」
僕にとって大切なものとはなんだろうか。大切なものもわからないから、寂しいのかもしれない。
「私は君のこと、結構好きだよ」
「そう」
「でも別に君の彼女にはならないし、なれない」
彼女が僕の肩に頭を預ける。
「そういう関係って、どう思う?なんとなくの寂しさを埋める為になんとなくの相手となんとなく一緒にいる事に、どれだけの意味があるんだろうね」
「なんでもかんでも意味が必要かな」
「きっと必要ないけど、でも多分、全部に意味があるよ」
トン、と煙草を叩き、半分あたりまで燃え尽きた灰が落ちる。落ちる途中に吹いた北風で、ふわっと舞っていく。そういえば、吐き出した煙はいったい何処まで行くんだろう。
「いつかその意味に気づけると良いね」
「俺たちはお互いに、その意味を気づかせる存在にはなれないんだろうね」
彼女は頷き、小さく笑う。
「ほら、また寂しそう」
そう言って彼女はトートバッグを漁る。取り出したのは、ハイネケンのビン2本。
「そんな君の為に、持ってきました。冬だしちゃんと冷えてるよ」
「君はきっと良いお母さんになるよ」
「良いお母さんはビールを持ってきません」
ピシャリと言う。
「缶切り持ってきた?」
「あ」
「正気かよ」
大丈夫だって、と彼女がビンの先の方を思い切り岩場に叩きつけ、割る。
「ほら、これで飲める」
続いて2本目のビンの先も叩き割り、1本を寄越す。変なところ豪快だった。緑色のビンが、陽の光に当たってキラキラと輝いている。
飲み口に出来るだけ口をつけないようにして飲む。高校生の頃の部活動で、スポーツドリンクを回し飲みしたことを思い出した。
「気をつけて飲まないと、あ、馬鹿だなあ」
彼女は割れた飲み口にそのまま口をつけて、唇を切っていた。
うーん、と少しだけ唸って、僕にキスをしようとする。
「血が出ているのに、そういうのは良くない。病気になる」
「君のそういう変な冷静さ、いただけないな」
「君のそういう変な破天荒さもどうかと」
思うけど、という言葉は、塞がれた唇のせいで飲み込まざるを得なかった。僕の口内にやすやすと侵入してきた舌をどうにかするのに忙しくて、今ならこのまま波に呑まれて死んでも良いと思った。正体不明の大きな鳥が鋭く鳴く。波の音。衣擦れの音。いろいろな音を差し置いても、静寂が一番煩かった。
「誰かの為に歌を作るなんて最低だと思ってたんだけどさ」
唇が離れた隙に言う。
「やってみると、案外悪くなかった。その相手が例え、不誠実な関係性でも」
「欲のままの行動が、不誠実とは思わないな」
それから、と人差し指を立てる。
「誰かの為じゃない歌なんて、多分ないよ」
僕と彼女は、決定的に合わない。この決定的な溝が僕と彼女の仲を今後取り持つのかもしれないという予感が少しだけあった。昔の恋人が僕の元から去る時に言ったセリフを思い出す。
「何から何まで同じだったらさ、一緒にいる意味なんてないよね」
「なに?」
「僕はこれからも君と会うんだろうなって思った。そういう話だよ」
「よろしい」
彼女がニッコリと笑う。
「ご飯食べに行こう。お腹すいちゃった」
「そうだね」


近くにあったうらぶれた食堂で、僕らは昼食をとった。鯖の味噌煮定食を注文した僕を、奥川は「おっさんくさい」と笑った。彼女が注文したのは唐揚げ定食だった。運ばれてきた定食を見て、これで680円は安いな、と思う。
定食屋のおばちゃんがニコニコしながら「デートかい?」と僕らに聞く。どう答えるべきか僕が考えあぐねている間に、彼女が「そうです!」と元気良く返事をした。
「どこから来たの?」
「東京です」
「あら、ご近所さんね。この時期は誰もこないから嬉しいわあ」
「冬に海に来る人、あんまりいないですもんね」
「そうなのよ」
眼前で繰り広げられるお喋りをぼんやりと眺める。おばちゃんは久しぶりの来客が楽しくて仕方ないらしかった。おばちゃんもお茶を飲みながら、僕らが食事をするのを眺めている。
「美味しい?」
「美味しいです」
「一人暮らしすると、魚食べる機会ってあんまりないんですよね」
「あら、一緒に住んでないの?」
「住んでないんですよ」
「付き合ってどれくらい?」
「1年くらいですかね」
ぽんぽんと口から出まかせが飛び出す彼女に笑いそうになる。

じゃあそろそろ、と腰をあげようとした時、ポツポツと雨が降り始めた。
「あら、遣らずの雨だわ」
「遣らずの雨?」
彼女が首をかしげる
「お客さんを帰したくない時に降る雨の事だよ」
「あら、よく知ってるわねお兄さん。若いのに」
「こういう日本語って好きなんですよ。綺麗で、風情があって」
そうよね、とおばちゃんが微笑む。
「洗い物してくるから、雨宿りでもしてな」
熱いコーヒーを置いて、おばちゃんが厨房の方に去っていく。コーヒーを飲みながら、ぼんやりと付けっ放しのテレビを眺める。品のないバラエティー番組が流れていた。
「こうしてるとさ」
彼女がポツリと言う。
「なんか、夫婦みたいじゃない?」
「そうかな」
「そうだよ。それも、老夫婦」
息を吹きかけてコーヒーを冷まそうとする彼女をまじまじと見つめる。老夫婦みたいとはどういう事なんだろう。
「惰性で眺めているテレビと熱いコーヒー。外からは雨の音が聞こえてさ。きっと老後ってこんな感じなんだろうな」
「いつも雨が降っている感じはするよね。老後って」
「うん。しばらくして雨が止んで、雲間から太陽の光が差し込むでしょ。そうしたら外に出て、寒さに震えながらスーパーに行くの。夕飯の買い出しだよ。君は日本酒を買おうとして、私はそれに合わせて魚を買う。焼き魚は匂いがつくから、味噌煮の方が良いかななんて考えながら」
訥々と呟く彼女の表情は、影になって見えない。テレビから一際大きな笑い声が聞こえる。飲み込んだコーヒーはひどく熱くて、真っ黒な液体が喉を通過する間に涙が出た。
「それで、並んで歩いて帰るの。君は日本酒を飲んでテレビを観てる。私は魚を焼いて、一緒に食べる。今は食後のコーヒーを飲みながら、一緒にテレビを観ている最中」
「老後がそんな風に美しいものだったら、生きていて良かったって思えるかな」
「きっと思えるよ。だって、生きていて良かったって思えない人生なんて、無かったのと同じだもの。私たちの人生はちゃんとここにあるから」
彼女が、彼女と僕の間の空間を指差して言う。
「だから、きっと私たちの老後は美しいものになるよ」
まっすぐにこちらを見る目に、吸い込まれそうだった。
「そういうのが欲しいんだよね。私はさ、幸せになりたくて、それだけなんだ」
「幸せになるために、みんなその過程を生きてるんじゃないかな」
「死ぬ事が幸せで、人生はその過程だって、君なら言いそう」
「言うかもしれない」
「死ぬ事が幸せって思う?」
「思った事もあったけど、今は死ぬ事が幸せにならないように生きてる」
「それで良いと思う。ほら見て」
指差された窓の外を見る。雨があがって、雲間から太陽の光が差し込んでいた。
「少しあるこうか」


真冬は夜が駆け足でやってくる。17:30ともなると辺りは真っ暗で、遠目からでは海と陸地の境界線は判別がつかない。
「東京にいたら時々忘れそうになるけど、夜って暗いんだね」
東京には当たり前にある街のネオンは無くて、街灯も極端に少ない。月明かりがなければ、恐ろしいほどの暗闇になってしまうだろう。
「東京は好き?」
ふと疑問に思って聞いてみる。
「好きだよ。生まれ育った街だし。みんな東京の人は冷たいって言うけど、そんな事ないし。どこも同じだよ。どこでも人は暖かいし、冷たい。東京の方が色んな物が揃うしね。君はどうせ東京が嫌いなんだろうけど」
「そうだね。俺は東京が嫌いだ。でも、田舎に住んでいたら、もしかしたら田舎が嫌いだったかもしれない」
「そうそう。隣の芝は青いし、ラーメン屋で隣の人が食べてるチャーハンは美味しそう」
「別の物が良く見えるというよりは、自分の物が悪く見える」
「それは君が根暗なだけだよ。ねえ」
「なに?」
「キスしてよ」
「どうして?」
「してほしいから」
「そういう気分じゃないんだ」
さざ波が遠くに聞こえる。鳥はもう鳴いていないが、北風は更に冷たくなっていた。
「気づいてる?君って、自分から私にキスした事ないんだよ」
「気づいてるよ」
「ズルいよね」
暗闇の中でも、彼女が口を尖らせているのがわかる。
「寂しそうなくせに、自分から寂しさを埋めようとはしないんだよ、君は」
「うん」
「だから、いつか私とずっと一緒にいても良いと思ったら、その時は君からキスをしてよ」
「わかった」
安易な約束は、約束とは呼ばないのかもしれない。そういう日が来るとは思えなかったが、僕はとりあえずで約束をした。
「待ってるからね。それから、君の夢は応援してるよ。でも」
「でも?」
「もしも君の夢が破れて、それで普通の幸せを手に入れたくなったら、その時は私を頼ってね」
頷く僕に、また彼女がキスをする。
じゃあ帰ろっか、と軽やかに言い、駆けていく。少し先まで真っ暗な夜道に、彼女の姿はあっという間に飲まれて消えた。僕はゆっくり前に進み、彼女の栗色の髪を追った。

『12月の海とホームシックブルース』


新宿25:00。逃した終電と眠らない街。


「お疲れちゃん」
深沢が、僕のデスクに缶コーヒーを置く。
「サンキュー」
キーボードを打つ手を止め、プルトップを開ける。
「まだ終わんねえの?」
「あー、もうちょっとやっていこうかな」
時計を見ると21:00を回っていた。煙草の吸い過ぎで掠れた喉にコーヒーが沁みた。
「飲みに行こうよ」
「新宿?」
「もち」
「いいよ。じゃあ行くか」
Excelがしっかり保存されていることを確認して、端末を落とした。
「おい、もうちょっとやっていくんじゃないのか」
上司の高見が横から口を挟む。
「高見さん、今そういうのいいんで」
「酒の方が大事っす」
「お前らな、そんな毎日酒飲んでると痛風になるぞ」
思わず深沢と顔を見合わせる。
「僕らもう痛風になってますけど」
「は?もう?二人とも?」
じゃ、そういうことなんでと呆れ顔の高見を置いてセキュリティカードをかざす。ピーと高い音がして、僕と深沢は会社を出た。

会社のある品川から、共通の乗り換え駅の新宿で降りる。金曜21:50の新宿駅は信じられないほどの人でごった返していた。人の奔流と持ち前の複雑な構造で進みにくい新宿駅を、深沢は一瞬も迷うことなくスルスルと進んでいく。いつまで経っても新宿駅に慣れない僕は、ただ黙って前を歩く深沢に着いていく。
新宿駅から西武新宿駅方面に真っ直ぐ進み、西武新宿駅を超えて更に進んだところに、僕と深沢が毎回行くタントという居酒屋がある。食事やツマミはやや高いが、ビールとハイボールが100円と破格で、常に深刻な財政難を抱えている僕らにはありがたかった。
駅からやや遠いためか、タントはいつでもそれなりに席が空いている。金曜日の夜でもやっぱり空席は目立って、店員の外国人に2名という告げると、二階に通された。
「生2つと、キャベツと納豆オムレツ
深沢が席に着くか着かないかのタイミングで言う。毎回最初は生2つと、キャベツと納豆オムレツ。2杯目からは、僕は生ビールのままで、深沢はハイボールになる。
「お待たせしました」
生ビール2杯と、お通しのきんぴらごぼうと、注文したキャベツがテーブルに置かれる。
「どうも」
納豆オムレツもう少々お待ちくださいね」
店員が去っていく。
「じゃ、お疲れ」
鈍い音で乾杯をして、一息に半分程飲む。
仕事が終わって、自由な時間。既に22:30だが、ここからが1日の始まりだ、という感覚があった。自由な時間以外は全て嘘で、今こうしている時間だけがリアルだった。

僕と深沢は、タントではすっかり常連で、際限なく飲み続けるこのテーブルのグラスを下げる事を店員は早くも放棄していた。テーブルには合計20個の空のジョッキが乱雑に並べられている。
「茜ちゃん呼ぼうぜ」
深沢が11杯目のハイボールを飲み干して言う。
「誰だっけそれ」
覚えていなかった。
「ほら、前に呼んだじゃん。俺の大学の友達。エロい子」
「ああ、お前が中退した大学の」
「中退の話は良いんだよ。茜ちゃんお前の事気に入ってさ、会いたがってたから呼ぼう」
「いいよ、面倒臭い」
「あのな、良い女っていうのは、ブランドで身を固めた女とか床上手な女じゃなくて、夜急に呼び出しても文句言わずに来て、一緒に酒を飲んでくれる女なんだよ」
「だから、呼ばなくて良いって」
深沢は僕の制止を聞きもせずに電話をかけ始める。深沢はモテる。高身長で顔も良く、スポーツ万能。頭も良い。前世でどんな徳を積んだらこういう人間になるんだろうと羨む気も無くなるような奴で、いつでも電話一本で飲みに来る女の子が沢山いた。だから、深沢と頻繁に酒を飲む僕は、必然的に女の子の知り合いが増えた。
「出ねえじゃねえか!」
深沢が大袈裟にため息をつき、電話を切る。
「残念だね」
「少しも残念そうじゃないトーンで言うな」
「そういや俺、決まったわ退職日。11月末」
「来月じゃん」
頷き、新たにビールとハイボールを注文する。すぐに運ばれてくる。
「音楽頑張るんだっけ」
「そうだよ。アラサーで何言ってんだって感じだけど」
「良いんじゃん?」
深沢が運ばれてきたばかりのハイボールをチビチビと飲みながら言う。
「世間的によ?あくまで世間的に言えばさ、そりゃあ馬鹿な選択じゃん。お前は仕事も出来るし、上司とも先輩後輩とも仲良くやって、良いポジション築いて。それ捨てて、この歳で会社辞めて音楽やるなんて、なに夢見てんだって話じゃん」
「返す言葉もないね」
煙草に火をつけてから、灰皿がいっぱいな事に気がつく。
「でも普通に生きてたら人生長いし、その間ずっとやりたい事我慢して仕事仕事じゃ、参っちゃうもんな。だから無責任かもしれないけど、やれよ。具体的には何もしないけど応援はするよ」
「ありがたいね」
「そろそろ俺をコーラスで雇ってよ」
「断る」
「なんでだよ!俺コーラス上手いだろ!」
「上手いけどいらねえ」
「そういや俺も年内で辞めるわ」
深沢のあまりに唐突な申告に思わずむせた。喉の奥に煙が引っかかる。
「なんで?夢でも追うの?」
「いや、働きたくねえ」
「困った子猫ちゃんだ」
「それキモいからやめた方が良いよ」
「俺もそう思う」
頷き、新鮮味がすっかり失われたキャベツを口に放り込む。底の方に溜まった塩ダレで喉が渇いた。
「ほんと言うとさ」
深沢が箸を突きつける。
「箸を向けるな」
「俺営業やりたいんだよね」
「良いんじゃん。明らかに向いてるよ」
「やりたい事あるならやるべきだよなー」
僕らは頻繁に、人生は長いという話と、人生は短いという話をする。やりたくない事をずっとやり続けるには長すぎて、やりたい事を全てやるには短すぎる。きっといつの時代でも誰かしらが同じ事を言っているであろう事が、この頃の僕らの話題の中心だった。時間と生活を天秤にかけて、できる範囲のやりたい事を消化していくしかないのだろう。
「最終的にどうなりたいかって言ったら、やっぱ幸せになりたいじゃん」
「うん」
「でも幸せの定義って人それぞれ違って、だから幸せになる為の道に正解が無いって酷だよね」
「まあ俺は今でも結構」
幸せだけどね、と言おうとして、やめた。口に出してしまったら、きっと無気力になってしまう。
「幸せになりたいって思ったらさ、多分永遠に幸せになれないんだよね」
「そういうもんかな」
「そういうもんだよ」
「でもさ」
深沢がハイボールのジョッキを持ち上げ、こちら側に少し傾ける。本当にしょっちゅう乾杯をしたがる奴だ。
「なに?」
「こうやってしょっちゅう、仲の良い同僚と馬鹿みたいに酒飲んで騒いだり真面目な話をしたりさ、そういうのって、結構良いじゃん?」
「そうだね」
結構良い。それがきっと今は大事な事なんだろう。ビールのジョッキをハイボールのジョッキにぶつける。
「何度目の乾杯だよ」
「何にの乾杯だ?もうわかんないけど、きっと乾杯する理由なんて沢山あるよ」
「じゃあ、俺たちの未来にかな」
「くせえ」
納豆オムレツのせいだよ」
「お前はすぐ過去を掘り返す」
「掘り返せるだけ良いでしょ」
「それもそうだ」
ガツン、とジョッキが音を立ててる。頭の中で、音楽がぐるぐると流れていた。


キィンッという小気味良い音を立てて、白球が飛んでいく。バットを持ったままの深沢が「これ行ったっしょ!」と叫ぶ。伸びた白球は、ホームランの的をスレスレで避けてネットにぶつかる。「なんでだよ!」と深沢がまた叫ぶ。
新宿で酒を飲んだ後、カラオケかバッティングセンターに行くのが僕らの恒例だった。
16年間野球をやっていただけあって、深沢のバッティングホームは美しかった。飲み会帰りにそのまま来たようなサラリーマンの集団や、大学生くらいのカップルが主な客層だった。それぞれ皆んなが懸命にバットを振るい、怒声を吐いたり、ゲラゲラ笑ったりしている。
「打つ?なんでお前ビール飲んでんだよ」
深沢がボックスから出てくる。僕が手にした缶ビールに素早く気づき、ツッコミを入れる。
「なんかさ、こうやって酒飲みながら他人が一生懸命バットを振ってるのを見ると、泣きそうになるんだよね」
「バッティングセンター来て酒飲んでるのも、泣きそうになってるのも理解出来ねえ」
「理解できる事の方が世の中少ない」
「そういう話はしてないだろ」
深沢が吹き出す。始まったよ、先生の哲学が、と笑う。深沢は酔うと、よく僕の事を先生と呼んだ。
笑い声と打撃時の快音と気怠げな店内放送。決して静寂が訪れない25:00の新宿のバッティングセンターは居心地が良かった。
「もう終電ねえな」
「人生においてさ」
「人生において、ときたか」
深沢が身体を折り曲げて笑う。笑上戸な奴だった。
「人生においてさ、必要なのは」
「必要なのは?」
「終電を逃す覚悟だよ」
「なんとなく言いたい事はわかるぞ」
「嘘だね、絶対にお前はわかってない」
「ばれたかー」
深沢が額をピシャリと叩く。
「終電を逃してもさ、時間をかければ歩いて帰れる。金をかければタクシーで帰れる。カプセルホテルや満喫にも泊まれる。人生的にも、終電を逃すのは余裕だよ」
「いい事言ってるけど、それ終電に例える意味ある?」
「ない」
「そういうとこだよなー、先生」
背中を強めに叩かれる。
「でも俺は、そんな先生が結構好きだよ」
「それは良かったよ」
「ところで、もう俺たちには終電が無いわけだけど」
カラ館行くか、カラ館
何人かのキャッチをかわしながら歩く。あちこちに人が転がっていて、吐瀉物の溜まりがある。どこまでも汚くて、明るい街だった。新宿は眠らない。僕はこれから、眠らない街で夢をみる。
「多分だけどさ」
深沢がポツリと言う。
「なんとかなるんじゃないかな。だいたい全部」
「俺はさ、終電を逃す事を恐れないよ」
「とりあえずは、今日を全クリしようぜ」
カラオケ館の自動ドアが開き、広いフロントと、ペッパーくんが迎えてくる。
「2名、朝まで」
フロントの女性に伝えて、指を2本立てる。
「お酒飲まれますか?」
深沢と顔を見合わせる。
「飲み放題付けてください」
「かしこまりました」
フロントの女性がダルそうに返事をする。きっとこの時間からの飲み放題の客が厄介なのだろう。僕も学生時代にカラオケでアルバイトをしていたからよくわかる。終電を逃してからカラオケに来て飲み放題に来る客は、大概物を壊すかトイレ以外で吐く。
俺ら吐かないから安心してよ、と深沢が前のめりにフロントの女性に言うのを、アルコールが回ってボンヤリとした視界の隅に入れる。
フロント脇の灰皿の隣の椅子に座り、煙草に火をつける。吸い込み、吐き出す。また吸い込み、吐き出す。楽しいな、と思う。
「行くぞ!」
「おーけー」
エレベーターに乗り込み、7階のボタンを押す。独特の浮遊感に胃が引っ張られたが、不思議と不快ではなかった。

『新宿25:00。逃した終電と眠らない街。』
春野 海

131円のコンタクト液と赤ラークとサッポロ黒ラベル


通っていた中学校の同学年で、定期的に同窓会が行われている。頻度は半年に1回。同学年の総数は200人を少し超える程度だったと思うが、集まるのは基本的には50人程らしい。

中学生時代に嫌な思い出はないが、取り立てて懐かしむような思い出もない。友達はいたが、卒業してからは1人を除いて連絡もとっていない。多分、フェイスブックでも始めれば簡単にまた繋がることは出来るのだろう。
唯一まだ連絡を取っている1人は「私は格好良い女になるのが目標だから」と言って中央大学の法学部に進み、誰よりも勉強をして、弁護士になった。友達も多くて、先輩に可愛がられ、後輩に慕われ、海外へホームステイもして、言葉だけの人と私は違う、と言わんばかりに次々と掲げた目標をクリアしていく彼女は、はたから見ていて爽快だった。

彼女から着信があったのは2017年の8月の終わり。夏にしては涼しくて、雨の予感がする夜だった。最寄駅の喫煙所でいじっていたスマートフォンの画面に、増田夏美という名前が表示される。冬生まれなのに夏美という名前なのはおかしい、と彼女がしばしばこぼしていた事を、その名前がスマートフォンに表示される度に思い出す。
「同窓会あるんだけど、どうせ来ないでしょ?」
電話に出ると、挨拶も無しにそんなセリフが飛び込んでくる。夏美と話すのは半年ぶりだったが、続きのように会話ができる事が嬉しかった。
「行かない」
半年に一度、同窓会がある度に行ういつものやりとり。
「でも今回、先生くるよ。山田先生。覚えてる?」
「ああ、じゃあ行こうかな」
「え、来んの?マジかウケる。明日だけど、同窓会」
「前日に誘う奴がいるかよ」
「ここにいたんだよね」
電話越しに夏美がケラケラと笑っているのがわかる。
「誘っても来た試しが無いから、今回も来ないと思って前日まで連絡すんの忘れてたんだよね。ごめんごめん」
夏美が少しも申し訳なく思っていなさそうなトーンで続ける。
「で、明日来れんの?」
「行ける」
「予定の無い、可哀想な人だね」
「予定は今出来ただろ」
はいはい、と夏美が流す。きっと電話の向こうではいつものように手をヒラヒラとやっているのだろう。僕らが出会った中学二年生の春から変わらない夏美の癖。そうか、そういえばあれからもう10年も経ったんだっけ。
時間の流れの早さは証明写真と同じくらいに残酷で、圧倒的に現実だった。あの頃の僕らは、まさか自分が24歳になるなんて思っていなかったはずだ。定期テストや部活の大会に追われながらも、モンスターハンターをやったり、深夜のドンキホーテで警察に見つかって必死に逃げたりしていた馬鹿な僕らは、あれからたったの10年でこんなにも毎日を仕事に奪われる事になっているとは、思っていなかった。
「ところで、あんた山田先生に思い入れあったんだっけ」
「特にないよ。担任だっただけ」
「じゃあなんで山田先生来るからって、同窓会行く気になったの?」
「俺たちも社会人になってからもう3年目になる訳じゃん。純粋に興味があったんだよね。12歳から15歳までの中途半端な時期の俺たちを知ってる大人からは、今の俺たちはどう映るのかなって」
「ふうん」
夏美が、まるで興味の無さそうな相槌を打つ。
「そうなんだ。まあ興味ないけど」
本当に興味がないらしい。
「そろそろ興味の無い事を他人に質問する事を法律で禁止した方が良いな」
「そんな事になったら、世の中から女子会が消滅する」
「誰も困らないだろ」
「困るんだよ、女子が」
「俺たちは困らないじゃん」
「私は困るけど」
「甘えるんじゃないよ」
「とにかく」
夏美が大きな声を上げた。
「一見必要なさそうなもの程、実は必要だったりするんだってば」
「それが女子会?」
「それが女子会。うん」
じゃあまた明日ね、と夏美が言う。「後でLINEで会場の住所送るから」「一緒に行こうよ」「なんで」「俺は方向音痴だ」「しょうがないな」電話が切れる。


翌日、待ち合わせ場所として提示された池袋東口、『いけふくろう』と呼ばれるフクロウ型のオブジェの前に到着した時、夏美はまだ来ていなかった。柱に寄りかかって通り過ぎる人々を眺めた。汗をダラダラと流して走るサラリーマン。着飾った妙齢の女性。ギターバックを背負った大学生風の男。矯正をあげる老女の集団。手を繋いで歩く若いカップル。その奥から、こちらに向かって駆けてくる女が見えた。白いシャツとタイトな黒のスカート。
「ごめん、待った?」
「ううん、今来たところ」
僕が答えると、夏美が満足そうに笑った。
「このやりとり、いっぺんしてみたかったんだよね」「わかる」「相手があんたってのは、不本意だけど」「わかる」
じゃあ行こうか、と東口の階段を上る。金曜夜の池袋は人でごった返している。誰も彼も正面を見ていないのに、器用に人を避けて目指す方向へ進んでいる。
「随分、髪が伸びたね」
「可愛いでしょ」
「いや、可愛くはない」
僕のふくらはぎに夏美の蹴りが入る。
「ところで、池袋にあるフクロウだからって、いけふくろうってネーミングはどうかと思う」
「そう?わかりやすくていいじゃん」
いつだって僕はわかりにくいものが好きで、夏美はわかりやすいものが好きだった。僕らの間を10年間取り持っていたのは、その決定的な溝で、その事実が生き残っている事に少しだけ安堵した。社会に出て変わってしまった友人を、僕は何人も見てきていたから。
僕は社会でどうにか生き残る為に、夏美は対人関係をより良くする為に培ってきた、相手に話を合わせるという概念としての協調性を、ここでは発揮しなくて良いのだ。
期限の切れたコンタクトレンズのせいで、池袋の淫靡なネオンが少しぼやけて見えた。


同窓会の会場は池袋東口から10分程離れ、少し簡素になった街並みの地下にひっそりと身を隠すように存在するパーティホールだった。重い扉を開けると、室内の音が勢い良く外に飛び出した。下品で陽気な笑い声とレゲエ。
入り口で待機していた化粧の濃い女が駆け寄る。
「夏美から聞いて来るのは知ってたけど、本当に来てくれたんだー!ありがとう!久しぶり!」
化粧の濃い女が僕の前で手を振る。そのネイルは過剰すぎるんじゃないか。
「久しぶり、えーと」
口ごもった僕の背後で夏美が小声で「藤崎」と呟いた。
「藤崎さん」
「絶対今、私の名前一瞬思い出せなかったでしょ」
「そんなことないよ」
実際、そんなことはなかった。夏美が教えてくれなかったら、一瞬どころか同窓会の時間中ずっと思い出せなかっただろうから。
「夏美も久しぶり〜」
「久しぶり!」
夏美と藤崎の挨拶が終わるのを待って、僕は会費の4000円を支払った。「じゃ、また後でね〜」と藤崎が言う。声までケバケバしかった。
「藤崎さんって、あんなんだったっけ」
席に向かう道すがら確認する。中学生の頃の藤崎は、どちらかと言うと地味な女の子だったように思う。
「女は化粧でいくらでも変わるから」
「お前はあんまり化粧しないよね」
「私は美人だから、大丈夫」
「嫌な女だね」
「良い女だよ」
「酔うのは酒飲んでからにしてくれ」

席につき、さっぱり名前も顔も思い出せない男女と当たり障りのない会話をする内に、何人かの同級生が会場に到着し、やがて山田が入店した。山田は歓声をもって迎え入れられて、少し照れているように見えた。山田は当時そんなに人気のある教師ではなかった気がするが、大人になると色々と関係性は変わるのだろう。当たり前だが、山田は記憶にある姿よりも随分老けていた。今は50代くらいだろう。エロゴリラと呼ばれ女子に蔑まされていた山田が、今は若い女に囲まれている。
藤崎が乾杯の音頭をとり、途端にパーティホールが更に騒がしくなる。若者のパワーは騒がしさの限界を簡単に越える。当時の教師が来るという事もあっていつもより参加人数の多い同窓会となったようだ。山田と話してみたかったが、周りには人が多すぎて無理そうだった。僕にもう少し積極性があれば集団を突っ切って話しかける事は出来ただろうが、あいにくそんな積極性はない。奇跡的に山田までの人集りが二つに分かれたりしないかな、と祈ってみたが、残念ながら僕はモーゼではない。海どころか、人波も割れない。
何人かの「お、久しぶりじゃん」を交わしつつ、隅に追いやられた喫煙所代わりの灰皿置き場に辿り着いた。夏美も当時の友人達に囲まれていて、僕の居場所はここしかなかった。楽しそうに喋る夏美を見ながら、どこででも居場所を作れるのは凄いな、と感じる。幸い喫煙者は少なかったから、隅に追いやられた喫煙所の更に隅で1人ビールを飲んだ。

「えーと、久しぶり、覚えてる…?」
控えめに声をかけてきた小柄な女性を、僕は良く覚えていた。少し色黒で、クリッとした大きな目。淡いブルーの花が点々と描かれた濃紺のワンピースが良く似合っていた。
「沙良」
「よかった、覚えてた」
元恋人のクシャクシャな笑顔は、あの頃のままだった。
小泉沙良は僕の人生で初めての彼女で、二度ほど手を繋いだだけで、一ヶ月程度で別れた。別れた理由は今でもよくわからない。多分あの頃の僕らはお互いにまだ子供で、手を繋いだだけで耳まで真っ赤になってしまっていたから、気づいたら連絡も取らないようになって自然消滅した。一冬の曖昧な恋人が、10年の時を超えて僕の前に立っていた。
「ね、身長伸びたんだね」
「うん、今でも小さいけど」
当時150センチしかなかった僕の身長は、今は170センチになっていた。
「あの頃に比べたら、随分高いよ。私、中学生の時と身長変わってないんだけど」
彼女が自分の頭を手で押さえる。
「前は同じ目線だったのに、今は見上げちゃうもんね」
「うん、でも、沙良は綺麗になったね」
「そんな事、さらっと言えちゃうようになったんだねー」
「冗談だよ」
僕は急に恥ずかしくなって、ビールを一息に飲んだ。
「ビール持ってくるから、ちょっと待っててよ」
「私のこれ、一緒に飲んで良いよ」
彼女が手に持っているのはオレンジ色のカクテルだった。
「ごめん、俺甘いの苦手なんだ。すぐ戻るよ」
いってらっしゃい、と沙良が腰の辺りで小さく手を振る。

ビールを持って戻ると、沙良が柱に寄りかかっていた。
お待たせ、と声をかける。沙良はそっと首を振った。
乾杯を求めるように掲げられたグラスに気づいてグラスを近づけると、沙良が勢い良くグラスをぶつけ、なみなみ注がれたビールが僕の服にかかった。
「そういうとこ、変わらないね」
「変わらないねって言って欲しくて、つい」
沙良が悪戯を見つかった猫のような顔で笑う。
僕と沙良はパーティホールの隅で、中学校を卒業してからの9年間を話した。話が最近のことに移行するまでに、僕は5杯のビールと9本の煙草を吸った。
「煙草、もう無いね」
沙良が僕の煙草の箱を覗き込んで言う。
「ちょっと吸いすぎたね」
「買いに行く?出入り自由だと思うよ。道わかんないなら付き合うし」
「そう、じゃあ行こうかな。一応藤崎さんに声だけかけるよ」
僕はビールを飲み干し、沙良もそれに倣った。
辺りを見渡すも、藤崎の姿は無かった。きっとトイレか、それともどこかで人に囲まれているんだろう。人も多く、広さもあるこの会場で一人の人間を探すのは困難だった。
藤崎を探す途中に見つけた夏美に声をかけ、僕と沙良は会場を抜け出した。
少しだけ、雨が降っていた。
「これくらいの雨なら傘要らないよね」
沙良が先制するように言って、屋根の外に出る。「ほら、全然平気」
「服が濡れるよ」
「濡れたって乾くよ」
「そりゃそうだけど」
「早く行こ」
少し先に見えるネオン街へ軽やかに歩いていく沙良を追って、僕も雨に濡れた。


「ね、夏美と付き合ってるの?」
コンビニ前の筒型灰皿の前で沙良が唐突に言う。この時間帯の池袋のコンビニには生活感がなく、きっと何かが悲しくて酔い潰れた若者が、歩道の端に転がっていた。
「付き合ってないけど、なんで?」
火のついたばかりの煙草が、死ぬ直前の蝉のような音をあげた。
「さっきも夏美に声かけてから出てったし、そもそも一緒にきてたし」
「藤崎さんが見つからなかったから、たまたまいた夏美に声をかけた。一緒にきたのは俺が方向音痴だから」
「でも他の人でも良かった訳じゃない?」
「中学時代から今でも付き合いがあるのが夏美だけだったから一緒に来たんだよ。いざ同窓会きてみれば、みんな変わってて誰が誰だかわからないし」
ふーん、と沙良が納得のいっていない様子で口を尖らせる。
「でも、中学の時からずっと仲良かったでしょ。今でも、同窓会に一緒にくるくらいには」
「あのね」
自分が少しイラついている事がわかる。
「中学の頃からずっと言われてたんだよ、そういうの。知ってるとは思うけどさ。でも付き合ってないし、付き合った事もない。そうしたいと思った事もない」
あ、いたいた!と遠くから声がし、若者が数人走り寄り、歩道の端で酔い潰れた若者を回収していく。僕はため息を誤魔化すために、煙草を吸い、思い切り吐き出した。
「男と女が恋愛感情なく、ただ仲良いっていうのがそんなに不思議?」
「私は不思議」
沙良がきっぱりと言う。何かを言い切れるのは強いな、と思う。
「中学生ならまだわからないけど、私たちって、もう20代中盤だよ。この歳の男女が、下心無しで仲良くできるものじゃないと思う」
「俺はそう思わない」
「私は思う。そりゃ相手がブサイクとかならわからなくもないよ。でも、少なくともお互いに人並みかそれ以上の容姿だったら、多かれ少なかれ、下心なんてあるでしょ」
「人によるでしょ、それは」
煙草を揉み消す。
「友達として確立されてたら、恋愛感情なんて抱かないよ」
「そうやって言う人がたくさんいるのは知ってる。実際そういう瞬間があるのもわかるよ。でも、人って変わるじゃん。ずっと友達と思ってた人が、ふとした瞬間にどうしようもなく異性になる事ってあるでしょう?」
少なくとも、と沙良が小さく言う。
「中学生の時、君を好きになった時の私はそうだった。君も私を好きになったなら、そういう事なんじゃないの?直前まで、私たちは友達だったでしょ」
「多分俺は、友達のハードルが人より高いから」
当時、僕は沙良の事をよく話す他人程度にしか思っていなかった事を、できるだけオブラートに包んで告げる。彼女は僕の友達ではなかった。
「私は今日、君が会場に入ってきた時、ドキドキした。まさか来るとは思ってなかったし。でもそのすぐ後ろから夏美が入ってきて、やっぱり付き合ってるんだって思って、凄く悲しくなった」
「何度でも言うけど」
「わかってる。いや、夏美と付き合ってない事はわかった。私たちって曖昧なまま、なんとなく終わったでしょ。あれからもう10年経つんだけど、私は今でも、うーん、多分今になって会えたから、私は君の事が」
「待った」
その先は聞きたくなかった。僕がもう少し酔っていたら、頭を抱えて叫び出していたかもしれない。沙良の不意打ちな異性を目撃して、まっすぐ立つのも辛くなっていた。コンビニの窓ガラスに寄りかかり、ゆっくり目を閉じてまた開けると、沙良の顔がすぐそこまで近づいていた。
「待ってってば」
沙良の両肩を掴み、遠ざける。
「俺を困らせたいの?」
「困らせたい訳じゃないけど、私のせいで困ってほしい」
「よくもまあそんな」
ドラマチックなセリフが吐けるね、という言葉はどうにか飲み込んだ。僕らが生きているのはドラマや映画の中ではなくて、毎日のルーティーンなのだ。代わり映えのしない毎日を破壊する為に異性を利用して、なにかの受け売りのようなセリフを酒の力を借りて真顔で言うのは、僕にはとても軽薄に映った。
「このまま、会場に戻らないで何処かに行こうよ」
「俺は、これから沙良と仲良く友達としてやっていけたら良いなって思ってたのに」
「無理だよ。だって私にとって君は男だもの」
僕にとって、沙良は女なのだろうか。もうなにもわからなかった。ハッキリしているのは、同窓会に参加した事への後悔と、そういえば今月分の公共料金の支払いを済ませていない事だけだった。
「綺麗な思い出のままなら良かったのにって思う?」
「今がどんなに最悪でも、思い出になってしまえば全部綺麗だよ」
でも、と再度近づきかけた沙良を手で制す。
「将来綺麗になる事に委ねて今の最悪さに甘んじる事は出来ない」
「意味わかんない」
「とにかく、ごめん。気分が悪いから帰るよ」
「馬鹿じゃないの」
「うん、俺馬鹿なんだ。知ってたでしょ」
僕は燻んだネオンに吸い込まれるように歩き出す。足音が聞こえない事で、沙良が追ってきていない事はわかった。足音を隠すには今夜の雨は頼りなさすぎて、その事実に少しだけ安心した。


胸ポケットにしまったスマートフォンの震えで目が覚めた。夏美からの電話だった。
着信状態にすると、夏美の「どこにいんだよ飲んだくれ」という暴言が飛び出した。
自分がどこにいるのかわからず、辺りを見渡す。すぐに見当がついた。
「東口の、民度0の公園」
「ああ、コンビニ2つに挟まれてるところ?」
「よくわかったな」
「その公園は本当に民度が0だからわかる」
電話の向こうで夏美がケラケラ笑った。
「そっち行くから待ってなよ」
「来んの?」
「今何時かわかってる?」
「さあ」
「1時だよ。もう終電ないの。このままあんたが公園で眠ってオヤジ狩りの対象になって殺されたのをニュースで知るのも寝覚めが悪い」
「俺まだ24なんだけど」
「良いから待ってなよ」
電話が切れる。広めの喫煙スペースがあるにも関わらずあちこちで煙草の火が灯り、花火を振り回している若者もいる。遠くで救急車とパトカーのサイレン。確かにここで寝たら死ぬかもな、と少し思う。


「ほら」
目の前にコンビニ袋が差し出される。夏美だった。
「なにこれ」
「131円のコンタクト液と赤ラークとサッポロ黒ラベル
どうせ必要でしょ、と夏美が笑う。「吐きそうになったらコンビニ袋も使えるしね」
「ありがとう。なんでコンタクト液だけ値段言うんだよ」
「金は返せよ。煙草とビールはいつも買ってるから値段わかるかなと思って」
「うん」
「どうせ沙良となんかあったんでしょ」
夏美が隣に腰を下ろす。
「なんでわかった?」
「そりゃ、あの子恋愛脳だしね。その上泣きながら会場戻ってきたから、わかるよ」
「ああ、そう」
やっぱりあの後泣いたのか。罪悪感が込み上げてくる。
「ぶっちゃけ、あんたが煙草買いに行くって言って、一緒に沙良がいた時にこうなるんだろうなって思ってた。もうちょっとあんたは女を女として見た方が良いんじゃない」
「今回の事で、そう思ったよ」
サッポロ黒ラベルプルトップを開けると、思い切り泡が噴き出した。夏美がケラケラ笑う。
「たくさん振っておいた」
「性悪女め」
「せっかく買ってきた恩人にそんな事言う?」
「それとこれとは話が別だろ」
ビールまみれの手をシャツで拭く。洗えば取れる汚れなら、今はどうでも良かった。
「お前はこんな時間までなにしてたの?」
「二次会。途中で抜けてきたけど」
「悪い事したね」
「いいよ別に。煩いし」
「じゃ、お礼は言わない」
「お礼は言えよ」
夏美が立ち上がってこっちに向き直る。
「終電ないから、朝までカラオケ付き合ってよ」
「良いよ」
僕も立ち上がる。
「あんたが一曲目に何を入れるつもりでいるか、当てようか」
「どうぞ」
「大正解」
並んで歩き出す。泣いてしまいそうだった。


『131円のコンタクト液と赤ラークとサッポロ黒ラベル

『渋谷のラブホテルとホームシック・ブルース』


「私たち、このままなんとなくで大人になるのかな」
ベッドの上で体育座りをした奥川が、絞り出すように言う。
「24歳って、もう結構大人だと思うけど」
「私は25だけど」
「じゃあ尚更だよ」
床にとっ散らかった服を拾い上げ、順番に着ていく。汗とアルコールを吸い取ったシャツは冷たく、臭かった。
「私のもとってよ」
「うん」
下着と洋服を拾い上げ、手渡す。
「着替えるからあっち向いてて」
言われた通りに彼女に背を向け、ついでにベッド脇の灰皿置きから銀色で無機質な灰皿を取り上げ、正面の丸テーブルに移した。赤ラークに火をつける。ベットに座ったままの僕はなんとなく落ち着かなくて、口から吐き出された煙が部屋の隅の換気扇に吸い込まれていくのを眺めた。
「君とセックスするとは思ってなかった」
服を着終わった彼女は備え付けの小さな冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを2本取り出し、片方を僕に差し出した。丸テーブルを挟んで僕の向かいの椅子に腰掛ける彼女の行動は、なんだか芝居がかっているように僕の目には映った。受け取ったミネラルウォーターを一口飲む。乾いた口の中が潤っていく感覚が気持ち良い。どうも、とお礼を言って、それから「俺もだよ」と付け足した。
「酔った勢いで恋人でもない人とセックスをすると、大人になっちゃったなって思わない?」
「少なくとも子供はしないよね」
「私たちってお互いのこと全然知らないのにね。君が私について知ってることって何がある?」
頬杖をついてまっすぐに僕を見つめる彼女を改めて見つめる。確かに僕は彼女のことをあまり知らなかったし、彼女も僕のことをあまり知らない。
「奥川さゆりって名前と、俺が一年で辞めた会社で勤続三年目を迎えている事と、飲みすぎて立てなくなった元同期を介抱の為にラブホテルに連れ込んでしまう事と、そこでそのままセックスしてしまう思慮の浅さくらいかな」
「つまり私の事は名前と今夜の記憶の範囲でしか知らないって事でしょ。会社でも別に話さなかったもんね。同期会でも当たり障りのない会話しかしなかった気がするし」
「そうだね」
僕は言葉と言葉の間の僅かな余白が急に恐ろしくなって、ベッド脇のラジオを付けた。2017年に20代をやっている僕らはラジオ番組なんてろくに知らなかったから、適当にチャンネルを回して、やがて古い洋楽を流す番組に行き当たり、チャンネルをそのままにした。
午前2:00の渋谷のラブホテルの一室を、ボブディランの優しい声が支配する。僕は短くなった煙草の火を揉み消して、新しく取り出した煙草にまた火をつけた。
「せっかくだから、もう少しお互いの事を知ろうよ」
お互いの事を知って何になるのだ、とは少し思ったが、一切の眠気が無かったから僕は首を縦に振った。そうした瞬間、欠伸が出た。
「眠い?」
「いや」
「よかった。私全然眠くないんだよね」
「興奮状態にあると、人間は眠れないらしいからね」
「君って意外と変態だよね。それは今日知りました」
クスクスと笑う彼女に対して、本当に自分はこの女の事を何も知らないのだと気づく。
一年一緒に働いてもろくに言葉を交わさなかったから、僕が彼女について知っている事は名前と部署と外見くらいのもので、その他は今夜知った事だけだ。
「君はね、狡い男だと思う」
「どうして」
俺の事なんて何も知らないくせに、という言葉をどうにか飲み込み、代わりに煙を吐き出した。
「だって寂しそうなんだもの」
「寂しそう?俺が?」
頷いた彼女の茶髪が揺れた。
「さっきの飲み会の時、ずっと思ってたんだ。だって君、前は飲み会でも自分のペースでゆっくりお酒飲んで、結構静かだったでしょ。飲む量の割に足取りもしっかりして、酔い潰れた誰かの介抱もしてたし」
「よく見てるね」
同期は8人しかいなかったから、当然といえば当然かもしれなかった。あの頃の僕らは会社の横暴な経営に疲れて、頻繁に同期で集まっては酒を飲んでいた。
「そんな君が、1年ぶりに会った今日は立て続けに何杯もビールを飲んで、日本酒も徳利ごと飲んで、完全に酔い潰れてた。私、トイレに駆け込む君も、テーブルに突っ伏して眠る君も、店を出る時に一人じゃ立てなくなってる君も、初めて見た」
「それで、寂しそうなんて思ったの」
「大人がさ、たった一年の間にお酒の飲み方が180度変わるには、それなりの理由が必要だと思うんだよね」
口を開きかけた僕を手で制して、彼女が続ける。
「別に何があったのかとか、聞くつもりはないよ。それに、寂しそうなのが私の勘違いでも構わない。でもさ、女が男に抱かれたいと思うには、それなりに顔の整った男が寂しそうにしてるって理由だけで充分なんだよね」
「それで駅に向かう同期の群れから離れて、一人じゃ歩けない俺をラブホテルに連れて行ったんだ」
「だいぶ酔いが醒めたみたいだね」
彼女がピシャリと言って、テーブルに置いたままの赤ラークの箱から煙草を一本抜き出した。
「煙草吸うようになったの?」
彼女は首を振り、「吸った事ない」と答えた。
「寂しそうな男とのセックスは、25にもなって煙草を吸い始めるには充分な理由になる訳?」
「別にいいでしょ、私は君の彼女じゃないんだし」
煙草を咥えずに煙草に火を付けようとする彼女が、とても滑稽に映った。
「それじゃ火つかないよ。咥えて、吸い込みながら火をつけるんだ」
「みんなが咥えながら煙草に火をつけるのって、格好つけてた訳じゃないんだ?」
彼女が煙草を咥え、今度こそ火をつけた。ぎこちない動作が可愛らしかった。
「ただ吸うだけだと煙は肺までいかないよ。吸うと一回口の中に煙が溜まるから、それを更にもう一回吸って、吐き出す。ただこの煙草それなりに」
説明し終わる前に実行したのであろう彼女が思い切り咽せる。煙草を灰皿の縁に置いて、ミネラルウォーターを喉を鳴らして飲んだ。
「重い煙草だからって言おうと思ったけど、遅かったね」
目に溜まった涙がすっと頬を伝うのを他人事のように眺める。
「でもさ、吸って吐くって行為は、深呼吸みたいでしょ」


それから僕らは、空が白んで彼女が「少し眠ろう」と提案するまでの間、少しだけお互いの話をした。会話は途切れ途切れになったり、かと思えば急に止まらなくなったり、それでも僕らが完全に理解しあったのは、お互いの趣味が全く合わないという事だった。
「こういう古い洋楽を聴いてさ」
彼女がベッド脇のラジオを指差す。ラジオからはキャット・スティーブンスが流れていた。
「楽しいの?」
「楽しいというか、好きだし」
「私はEXILEが好き」
「へぇ」
「あ、今、EXILEの何が良いんだって思ったでしょ」
「思ってないよ」
キャット・スティーブンスの曲が終わり、サイモンアンドガーファンクルが流れ始める。ボブディラン、キャット・スティーブンス、サイモンアンドガーファンクル。さっきはクリームやレッドツェッペリンニルヴァーナなんかも流れていたし、きっと有名どころをとりあえず流す番組なんだろう。
「奥川さんは将来の夢とかあるの?」
「今、将来中じゃん」
急に話題を変えても特に気にしないのは彼女の良いところだと思った。
「そうだけど、その上で。25歳として」
「まあ、お母さんになりたいかな」
「いいね」
「それ、全然いいと思ってない時に言うやつだよね」
「そんな事ないけど、ちゃんと現代的な価値観で生きられる奥川さんが羨ましいとは思った。世間が決めた幸せの定義を、そのまま自分の幸せの定義として落とし込める奥川さんが羨ましい」
「なにそれ、皮肉?」
「皮肉じゃなくて、ただ羨ましいんだ。俺もそうなりたかったよ」
なんだかよくわからないけどさ、と彼女が控えめに欠伸をする。
「多分君は、いろんな事を難しく考えすぎているだけだと思う。捻くれてるって言っても良いかもしれない。シンプルで良いんだよ。幸せだって思ったものだけが幸せなんだから」
幸せだって思ったものだけが幸せなんだから、と言い切れる力強さに酷く狼狽した。さっきまで僕の腕に抱かれていた目の前の女が、もう抱きしめる事も出来ない程強靭な生き物のように急に思えた。きっと今彼女を抱きしめてしまったら、全身から飛び出した無意識の針で僕はズタズタになってしまうだろう。



空が白んで、彼女が「少し眠ろう」と提案した。
「最後に一本吸うから、先に眠ってなよ」
言いながら、煙草に火をつけた。飲み会に行く前に買った煙草は、今吸っているのを含めて残り2本になっていた。
「あのさ、私は明日用事があるから、起きたら先に出るよ。チェックアウトは11時だから、君はそれまでは居たら?」
「そうする。何時に出るの?」
「8時くらいかな」
時計を見ると今は4:16だった。多少は眠れそうだ。
「じゃ、もう眠った方がいいね」
「一応聞いておくけどさ」
彼女がベッドに移動しながら言う。
「君は泥酔して、眠って、目が覚めた時に記憶があるタイプ?」
「無い方が都合が良ければ、記憶が無いフリをしておくよ」
「いいよ、別に」
彼女が勢いよくベッドに横になり、布団をかけた。
「おやすみ」
僕の背中に向かって彼女が言う。火をつけた煙草をろくに吸いもせず、固形の灰の長さをただ眺める。
「あのさ、誰かにおやすみって言ってから眠れるのって幸せだと思わない?」
返事は無かった。やがて伸びた灰が折れ、背後から寝息が聞こえる。夏の朝はとても早くて、窓からは日の光が差し込んでいた。
EXILEが好きで、将来お母さんになりたい女と自分は、世界で一番遠い存在なのではないかという思いが首をもたげる。絶対にそんなことは無いと分かりつつ、僕は今この世界で完全にひとりぼっちなんじゃないか、一生誰にも理解されることなんてないんじゃないかという思考に支配され、急に込み上げた吐き気に動揺した。
まだ僅かに残っていたミネラルウォーターを飲み干し、布団に入る。彼女の茶髪に触れ、ちゃんと実態がある事に少しだけ安堵したが、どうしてこんな事になったんだろうという思いを消す事はついに出来なくて、だから僕は眠れないまま7:30に鳴ったアラームで起きた彼女の「起きてる?」という問いには返事をせずに眠ったフリを続けた。
目をつむったまま、水を流す音やドライヤーの音を聞く。慌ただしい足音と、衣擦れの音。
「起きてる?」
彼女の2度目の問いを僕はまた無視して、眠ったフリをなおも続ける。
おそらく今しがた付けたのであろう香水の匂いが近づく。ベッドの軋む音と衣擦れの音。
「寝てるの?」
僕はまた無視をする。
彼女がそっと僕の髪を撫で、優しく頬にキスをした。僕の身体が一瞬強張ったのを、もしかしたら彼女は気づいたかもしれなかった。
彼女がベッドから降り、荷物をまとめてドアがある方向へと足音が遠ざかっていく。ドアの開閉音を聞いて、僕はようやく睡魔がやってきた事を知った。


けたたましい電話のベルで飛び起きる。時計を見ると10:55で、間違いなくチェックアウトの時間が迫っている事を告げる電話だろうと察しがついた。電話をとり、「もう出ますので」と答え、そういえばスマートフォン以外の電話機を使うのは久し振りだったなと気づく。
居心地の良いベッドから抜け出し、身体を大きく伸ばす。鈍い頭痛は不快だったが、きっと今日は悪い一日にはならないんじゃないか、とふと思う。
窓際に置かれた電気ケトルとインスタントのコーヒーが目に入る。お湯が既に沸いていた。きっと彼女が出がけに気を利かせて用意してくれていたんだろうが、あいにくチェックアウトまで時間がない。時間制限のある人生を急に息苦しく感じたが、どうやらそれについて長考している時間もない。
スマートフォンと財布と煙草とライターとウォークマンをあちこちのポケットに突っ込む。荷物が少なくて良かったと今は思う。僕は部屋を飛び出し、顔の見えないフロントに鍵を返した。
ラブホテルから出る時、僕はいつも少しの緊張感と罪悪感を抱く。今日みたいに天気の良い日は尚更だ。人々の喧騒と蝉の声に疲れて、高校生の頃からずっと使っているSONYウォークマンを取り出す。昨晩ラジオから流れていたボブディランの『Bringing It All Back Home』のアルバムが、今度はウォークマンから再生される。帰ったらこういう曲を作ろう。

スクランブル交差点に差し掛かった時、ポケットの中のスマートフォンが震えた。画面には彼女の名前が表示されていた。横にスワイプしてLINEを開く。
「おはよ、ところで昨日の記憶はあるの?(笑)」
その一つ前の彼女とのやりとりはまだ2年前、僕と彼女が同期として一緒に働いていた頃のもので、僕は彼女に名刺の作成を依頼していた。彼女から承諾を意味するスタンプが送られてきていたから、きっと名刺は作成されて、僕はそれを受け取ったんだと思う。その数ヶ月後に僕は会社を辞めたけれど。
「残念ながら、全部覚えてる」
僕は返事を打って、スマートフォンをしまおうとしたが、すぐに返事が来た。どうしてこう、間を空けずに次々と文字を打てるのだろう。何をそんなに知りたくて、何をそんなに知ってほしくて、相手がスマートフォンをポケットにしまうより早く返事が出来るのだろう。
「あのね、昨日伝え忘れたんだけど、ラジオで流れて君が好きって言ってたボブディランって人、歌下手だと思う」
思わずにやけてしまった。だって僕は、そんなことは承知の上で聴いているのだ。
「そりゃ、EXILEには敵わないよ」
「やっぱり、EXILEが神なんだって」
僕は適当なスタンプを打って、今度こそスマートフォンをポケットにしまった。ポケットの中のスマートフォンが何度か震えたが、無視をした。これ以上やりとりを続けていると、今朝のキスの意味を聞きたくなってしまいそうだった。Suicaで改札をくぐり、新宿方面の山手線に乗る。休日昼間の山手線は楽しそうな人達ばかりで、僕は入れ違いで空いた隅の席に迷わず腰を下ろした。
ひどく眠かった。こんな時に誰かが隣にいたら、高田馬場に着いたら起こしてと頼めたのに。そういう時に限って隣には誰もいなくて、だから眠るわけもいかずに僕はイヤフォンから流れる音楽に耳をすませた。全曲シャッフル再生にしているウォークマンは、いつの間にかにEXILEを流していた。EXILEなんていつ入れたんだろう。多分、大学の軽音楽部に入っていた頃、友達とふざけてバンドアレンジした時にでも入れたんだろう。
EXILEを聴きながら、山手線の車窓から街を眺めた。一駅ごとに律儀に停車して、深呼吸のように人を吐き出し、また吸い込む山手線は巨大な化け物みたいだと思った。そうか、僕は東京で生きているんだっけ。そんな事を急に思い出す。新大久保のホームに滑り込む。高田馬場まではあと一駅だったけど、僕は急に睡魔に負けた。完全に眠りに落ちる寸前、微かに昨晩の情事を思い出した。


『渋谷のラブホテルとホームシック・ブルース』