27歳では死ねなかった

『27歳では死ねなかった』という物語を投稿します。

『渋谷のラブホテルとホームシック・ブルース』


「私たち、このままなんとなくで大人になるのかな」
ベッドの上で体育座りをした奥川が、絞り出すように言う。
「24歳って、もう結構大人だと思うけど」
「私は25だけど」
「じゃあ尚更だよ」
床にとっ散らかった服を拾い上げ、順番に着ていく。汗とアルコールを吸い取ったシャツは冷たく、臭かった。
「私のもとってよ」
「うん」
下着と洋服を拾い上げ、手渡す。
「着替えるからあっち向いてて」
言われた通りに彼女に背を向け、ついでにベッド脇の灰皿置きから銀色で無機質な灰皿を取り上げ、正面の丸テーブルに移した。赤ラークに火をつける。ベットに座ったままの僕はなんとなく落ち着かなくて、口から吐き出された煙が部屋の隅の換気扇に吸い込まれていくのを眺めた。
「君とセックスするとは思ってなかった」
服を着終わった彼女は備え付けの小さな冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを2本取り出し、片方を僕に差し出した。丸テーブルを挟んで僕の向かいの椅子に腰掛ける彼女の行動は、なんだか芝居がかっているように僕の目には映った。受け取ったミネラルウォーターを一口飲む。乾いた口の中が潤っていく感覚が気持ち良い。どうも、とお礼を言って、それから「俺もだよ」と付け足した。
「酔った勢いで恋人でもない人とセックスをすると、大人になっちゃったなって思わない?」
「少なくとも子供はしないよね」
「私たちってお互いのこと全然知らないのにね。君が私について知ってることって何がある?」
頬杖をついてまっすぐに僕を見つめる彼女を改めて見つめる。確かに僕は彼女のことをあまり知らなかったし、彼女も僕のことをあまり知らない。
「奥川さゆりって名前と、俺が一年で辞めた会社で勤続三年目を迎えている事と、飲みすぎて立てなくなった元同期を介抱の為にラブホテルに連れ込んでしまう事と、そこでそのままセックスしてしまう思慮の浅さくらいかな」
「つまり私の事は名前と今夜の記憶の範囲でしか知らないって事でしょ。会社でも別に話さなかったもんね。同期会でも当たり障りのない会話しかしなかった気がするし」
「そうだね」
僕は言葉と言葉の間の僅かな余白が急に恐ろしくなって、ベッド脇のラジオを付けた。2017年に20代をやっている僕らはラジオ番組なんてろくに知らなかったから、適当にチャンネルを回して、やがて古い洋楽を流す番組に行き当たり、チャンネルをそのままにした。
午前2:00の渋谷のラブホテルの一室を、ボブディランの優しい声が支配する。僕は短くなった煙草の火を揉み消して、新しく取り出した煙草にまた火をつけた。
「せっかくだから、もう少しお互いの事を知ろうよ」
お互いの事を知って何になるのだ、とは少し思ったが、一切の眠気が無かったから僕は首を縦に振った。そうした瞬間、欠伸が出た。
「眠い?」
「いや」
「よかった。私全然眠くないんだよね」
「興奮状態にあると、人間は眠れないらしいからね」
「君って意外と変態だよね。それは今日知りました」
クスクスと笑う彼女に対して、本当に自分はこの女の事を何も知らないのだと気づく。
一年一緒に働いてもろくに言葉を交わさなかったから、僕が彼女について知っている事は名前と部署と外見くらいのもので、その他は今夜知った事だけだ。
「君はね、狡い男だと思う」
「どうして」
俺の事なんて何も知らないくせに、という言葉をどうにか飲み込み、代わりに煙を吐き出した。
「だって寂しそうなんだもの」
「寂しそう?俺が?」
頷いた彼女の茶髪が揺れた。
「さっきの飲み会の時、ずっと思ってたんだ。だって君、前は飲み会でも自分のペースでゆっくりお酒飲んで、結構静かだったでしょ。飲む量の割に足取りもしっかりして、酔い潰れた誰かの介抱もしてたし」
「よく見てるね」
同期は8人しかいなかったから、当然といえば当然かもしれなかった。あの頃の僕らは会社の横暴な経営に疲れて、頻繁に同期で集まっては酒を飲んでいた。
「そんな君が、1年ぶりに会った今日は立て続けに何杯もビールを飲んで、日本酒も徳利ごと飲んで、完全に酔い潰れてた。私、トイレに駆け込む君も、テーブルに突っ伏して眠る君も、店を出る時に一人じゃ立てなくなってる君も、初めて見た」
「それで、寂しそうなんて思ったの」
「大人がさ、たった一年の間にお酒の飲み方が180度変わるには、それなりの理由が必要だと思うんだよね」
口を開きかけた僕を手で制して、彼女が続ける。
「別に何があったのかとか、聞くつもりはないよ。それに、寂しそうなのが私の勘違いでも構わない。でもさ、女が男に抱かれたいと思うには、それなりに顔の整った男が寂しそうにしてるって理由だけで充分なんだよね」
「それで駅に向かう同期の群れから離れて、一人じゃ歩けない俺をラブホテルに連れて行ったんだ」
「だいぶ酔いが醒めたみたいだね」
彼女がピシャリと言って、テーブルに置いたままの赤ラークの箱から煙草を一本抜き出した。
「煙草吸うようになったの?」
彼女は首を振り、「吸った事ない」と答えた。
「寂しそうな男とのセックスは、25にもなって煙草を吸い始めるには充分な理由になる訳?」
「別にいいでしょ、私は君の彼女じゃないんだし」
煙草を咥えずに煙草に火を付けようとする彼女が、とても滑稽に映った。
「それじゃ火つかないよ。咥えて、吸い込みながら火をつけるんだ」
「みんなが咥えながら煙草に火をつけるのって、格好つけてた訳じゃないんだ?」
彼女が煙草を咥え、今度こそ火をつけた。ぎこちない動作が可愛らしかった。
「ただ吸うだけだと煙は肺までいかないよ。吸うと一回口の中に煙が溜まるから、それを更にもう一回吸って、吐き出す。ただこの煙草それなりに」
説明し終わる前に実行したのであろう彼女が思い切り咽せる。煙草を灰皿の縁に置いて、ミネラルウォーターを喉を鳴らして飲んだ。
「重い煙草だからって言おうと思ったけど、遅かったね」
目に溜まった涙がすっと頬を伝うのを他人事のように眺める。
「でもさ、吸って吐くって行為は、深呼吸みたいでしょ」


それから僕らは、空が白んで彼女が「少し眠ろう」と提案するまでの間、少しだけお互いの話をした。会話は途切れ途切れになったり、かと思えば急に止まらなくなったり、それでも僕らが完全に理解しあったのは、お互いの趣味が全く合わないという事だった。
「こういう古い洋楽を聴いてさ」
彼女がベッド脇のラジオを指差す。ラジオからはキャット・スティーブンスが流れていた。
「楽しいの?」
「楽しいというか、好きだし」
「私はEXILEが好き」
「へぇ」
「あ、今、EXILEの何が良いんだって思ったでしょ」
「思ってないよ」
キャット・スティーブンスの曲が終わり、サイモンアンドガーファンクルが流れ始める。ボブディラン、キャット・スティーブンス、サイモンアンドガーファンクル。さっきはクリームやレッドツェッペリンニルヴァーナなんかも流れていたし、きっと有名どころをとりあえず流す番組なんだろう。
「奥川さんは将来の夢とかあるの?」
「今、将来中じゃん」
急に話題を変えても特に気にしないのは彼女の良いところだと思った。
「そうだけど、その上で。25歳として」
「まあ、お母さんになりたいかな」
「いいね」
「それ、全然いいと思ってない時に言うやつだよね」
「そんな事ないけど、ちゃんと現代的な価値観で生きられる奥川さんが羨ましいとは思った。世間が決めた幸せの定義を、そのまま自分の幸せの定義として落とし込める奥川さんが羨ましい」
「なにそれ、皮肉?」
「皮肉じゃなくて、ただ羨ましいんだ。俺もそうなりたかったよ」
なんだかよくわからないけどさ、と彼女が控えめに欠伸をする。
「多分君は、いろんな事を難しく考えすぎているだけだと思う。捻くれてるって言っても良いかもしれない。シンプルで良いんだよ。幸せだって思ったものだけが幸せなんだから」
幸せだって思ったものだけが幸せなんだから、と言い切れる力強さに酷く狼狽した。さっきまで僕の腕に抱かれていた目の前の女が、もう抱きしめる事も出来ない程強靭な生き物のように急に思えた。きっと今彼女を抱きしめてしまったら、全身から飛び出した無意識の針で僕はズタズタになってしまうだろう。



空が白んで、彼女が「少し眠ろう」と提案した。
「最後に一本吸うから、先に眠ってなよ」
言いながら、煙草に火をつけた。飲み会に行く前に買った煙草は、今吸っているのを含めて残り2本になっていた。
「あのさ、私は明日用事があるから、起きたら先に出るよ。チェックアウトは11時だから、君はそれまでは居たら?」
「そうする。何時に出るの?」
「8時くらいかな」
時計を見ると今は4:16だった。多少は眠れそうだ。
「じゃ、もう眠った方がいいね」
「一応聞いておくけどさ」
彼女がベッドに移動しながら言う。
「君は泥酔して、眠って、目が覚めた時に記憶があるタイプ?」
「無い方が都合が良ければ、記憶が無いフリをしておくよ」
「いいよ、別に」
彼女が勢いよくベッドに横になり、布団をかけた。
「おやすみ」
僕の背中に向かって彼女が言う。火をつけた煙草をろくに吸いもせず、固形の灰の長さをただ眺める。
「あのさ、誰かにおやすみって言ってから眠れるのって幸せだと思わない?」
返事は無かった。やがて伸びた灰が折れ、背後から寝息が聞こえる。夏の朝はとても早くて、窓からは日の光が差し込んでいた。
EXILEが好きで、将来お母さんになりたい女と自分は、世界で一番遠い存在なのではないかという思いが首をもたげる。絶対にそんなことは無いと分かりつつ、僕は今この世界で完全にひとりぼっちなんじゃないか、一生誰にも理解されることなんてないんじゃないかという思考に支配され、急に込み上げた吐き気に動揺した。
まだ僅かに残っていたミネラルウォーターを飲み干し、布団に入る。彼女の茶髪に触れ、ちゃんと実態がある事に少しだけ安堵したが、どうしてこんな事になったんだろうという思いを消す事はついに出来なくて、だから僕は眠れないまま7:30に鳴ったアラームで起きた彼女の「起きてる?」という問いには返事をせずに眠ったフリを続けた。
目をつむったまま、水を流す音やドライヤーの音を聞く。慌ただしい足音と、衣擦れの音。
「起きてる?」
彼女の2度目の問いを僕はまた無視して、眠ったフリをなおも続ける。
おそらく今しがた付けたのであろう香水の匂いが近づく。ベッドの軋む音と衣擦れの音。
「寝てるの?」
僕はまた無視をする。
彼女がそっと僕の髪を撫で、優しく頬にキスをした。僕の身体が一瞬強張ったのを、もしかしたら彼女は気づいたかもしれなかった。
彼女がベッドから降り、荷物をまとめてドアがある方向へと足音が遠ざかっていく。ドアの開閉音を聞いて、僕はようやく睡魔がやってきた事を知った。


けたたましい電話のベルで飛び起きる。時計を見ると10:55で、間違いなくチェックアウトの時間が迫っている事を告げる電話だろうと察しがついた。電話をとり、「もう出ますので」と答え、そういえばスマートフォン以外の電話機を使うのは久し振りだったなと気づく。
居心地の良いベッドから抜け出し、身体を大きく伸ばす。鈍い頭痛は不快だったが、きっと今日は悪い一日にはならないんじゃないか、とふと思う。
窓際に置かれた電気ケトルとインスタントのコーヒーが目に入る。お湯が既に沸いていた。きっと彼女が出がけに気を利かせて用意してくれていたんだろうが、あいにくチェックアウトまで時間がない。時間制限のある人生を急に息苦しく感じたが、どうやらそれについて長考している時間もない。
スマートフォンと財布と煙草とライターとウォークマンをあちこちのポケットに突っ込む。荷物が少なくて良かったと今は思う。僕は部屋を飛び出し、顔の見えないフロントに鍵を返した。
ラブホテルから出る時、僕はいつも少しの緊張感と罪悪感を抱く。今日みたいに天気の良い日は尚更だ。人々の喧騒と蝉の声に疲れて、高校生の頃からずっと使っているSONYウォークマンを取り出す。昨晩ラジオから流れていたボブディランの『Bringing It All Back Home』のアルバムが、今度はウォークマンから再生される。帰ったらこういう曲を作ろう。

スクランブル交差点に差し掛かった時、ポケットの中のスマートフォンが震えた。画面には彼女の名前が表示されていた。横にスワイプしてLINEを開く。
「おはよ、ところで昨日の記憶はあるの?(笑)」
その一つ前の彼女とのやりとりはまだ2年前、僕と彼女が同期として一緒に働いていた頃のもので、僕は彼女に名刺の作成を依頼していた。彼女から承諾を意味するスタンプが送られてきていたから、きっと名刺は作成されて、僕はそれを受け取ったんだと思う。その数ヶ月後に僕は会社を辞めたけれど。
「残念ながら、全部覚えてる」
僕は返事を打って、スマートフォンをしまおうとしたが、すぐに返事が来た。どうしてこう、間を空けずに次々と文字を打てるのだろう。何をそんなに知りたくて、何をそんなに知ってほしくて、相手がスマートフォンをポケットにしまうより早く返事が出来るのだろう。
「あのね、昨日伝え忘れたんだけど、ラジオで流れて君が好きって言ってたボブディランって人、歌下手だと思う」
思わずにやけてしまった。だって僕は、そんなことは承知の上で聴いているのだ。
「そりゃ、EXILEには敵わないよ」
「やっぱり、EXILEが神なんだって」
僕は適当なスタンプを打って、今度こそスマートフォンをポケットにしまった。ポケットの中のスマートフォンが何度か震えたが、無視をした。これ以上やりとりを続けていると、今朝のキスの意味を聞きたくなってしまいそうだった。Suicaで改札をくぐり、新宿方面の山手線に乗る。休日昼間の山手線は楽しそうな人達ばかりで、僕は入れ違いで空いた隅の席に迷わず腰を下ろした。
ひどく眠かった。こんな時に誰かが隣にいたら、高田馬場に着いたら起こしてと頼めたのに。そういう時に限って隣には誰もいなくて、だから眠るわけもいかずに僕はイヤフォンから流れる音楽に耳をすませた。全曲シャッフル再生にしているウォークマンは、いつの間にかにEXILEを流していた。EXILEなんていつ入れたんだろう。多分、大学の軽音楽部に入っていた頃、友達とふざけてバンドアレンジした時にでも入れたんだろう。
EXILEを聴きながら、山手線の車窓から街を眺めた。一駅ごとに律儀に停車して、深呼吸のように人を吐き出し、また吸い込む山手線は巨大な化け物みたいだと思った。そうか、僕は東京で生きているんだっけ。そんな事を急に思い出す。新大久保のホームに滑り込む。高田馬場まではあと一駅だったけど、僕は急に睡魔に負けた。完全に眠りに落ちる寸前、微かに昨晩の情事を思い出した。


『渋谷のラブホテルとホームシック・ブルース』