27歳では死ねなかった

『27歳では死ねなかった』という物語を投稿します。

12月の海とホームシックブルース


「あの時、実は起きてたでしょ」
僕は動揺を悟られない為に、出来るだけ瞬きをしないようにしながら、奥川を見た。
「なんのこと?」
ザザッと大きな音を立てて波が引く。12月の潮風は毎日よりもよっぽど冷たくて、ライダースジャケットの下にセーターを着てこなかったことを少しだけ後悔した。
海を見にいこう、と奥川から連絡があったのは今朝の7時頃の事で、会社も辞めて時間があった僕は、その誘いに乗った。彼女に会うのは夏の渋谷のラブホテル以来だった。僕らは渋谷で待ち合わせをして、いくつかの乗り換えを経て、京浜急行久里浜線に乗り、三浦海岸に着いた。真冬の海がロマンチックなのは映画の中だけの話で、現実はただ寒いだけだ。観光客も遠のく冬場の海岸は、ろくに清掃もされておらず、其処此処に空き缶や煙草の空箱が転がっている。日差しは暖かかったが、一瞬の陽気を赦さないと言わんばかりの北風が吹く。その度、彼女の栗色の髪が揺れた。栗色のコートと赤いスカートに身を包んだ彼女が真っ直ぐに僕を見返し、口を開く。
「ホテルを出る時、私は君にキスをしたんだけど、君は起きてたよね。寝たふりをしてたでしょ」
「寝てたよ」
嘘をつく。強目の北風が吹いて、ビニール袋が宙を舞った。背伸びをした彼女が僕の後頭部を掴み、グイと自分の方に寄せる。4ヶ月ぶりに、僕と彼女の唇が重なる。
「君は隙だらけだから」
彼女が悪戯っぽく笑う。沙良の時は拒んだのに、奥川は簡単に壁を破壊してくる。
「本当は、狙って隙を見せてるんじゃないの?君はズルい男だから」
「どうかな」
「ね、手繋ごうよ」
差し出された手をおとなしく繋ぐ。彼女の手は暖かった。冷え性だ、とハンを押したように申告する割に、女性の手はいつも暖かい。持ってくるように命じられて担いで来たアコースティックギターが、僕の背で何かを主張するように揺れた。
「今日は平日だけど、仕事は?」
「サボっちゃった」
彼女は目を細めて海岸線を見る。
「なんで?」
「海が見たくて。あと君に会いたくて」
「冗談はやめなよ」
「半分嘘で、半分本当。君に会いたくて会社をサボったというよりは、会社をサボる決意をしてから、君の顔が浮かんだ」
「海を見たかったっていうのは?」
「それは本当。だけどあんまり面白くないね。やっぱり寒いし、退屈」
「その退屈さが良いんだよ」
「そういうもん?」
「うん。真冬に海を見たって、思ったより退屈だし、思ったより綺麗じゃないでしょ。ゴミも散らかってる。だけどやっぱ、静かなんだよ。世界の終わりみたいで、落ち着くんだ」
「へえ」
ちょっと座ろうか、と彼女が言い、並んで岩場に腰掛ける。背負っていたギターバックを下ろすと、背中が急に冷たくなった。
「飲む?暖まるよ」
彼女がトートバッグから魔法瓶を取り出し、コップにお茶を注いだ。澄んだ12月の空気に、幸福な湯気が立ち上る。
「君は良いお母さんになるよ」
「どういう意味よ」
差し出さられたコップから、熱いほうじ茶を飲む。身体の内側から暖まる感覚がした。
なんか不思議な感覚だね、とコップを両手で包み込むように持った彼女がポツリと言う。
「平日の昼間にさ、君と二人で海を見てる」
「非現実的だね」
「非現実的でも、すっごく自然に現実なんだよね。私は会社をサボって、二度目の退職を済ませた君と海を見てる。真冬だよ。多分、私と君がホテルで一晩一緒にいた季節にはさ、この海岸は観光客で賑わっていたはずなんだ」
君風に言うとね、と彼女が続ける。
「たった4ヶ月で、世界は終わるんだよ」
「でもそのたった4ヶ月で終わった世界で、君は仕事をサボって、俺は会社を辞めた。ちゃんと世界は動いてるよ」
黙って頷き、コップを傾ける彼女はとても小さく見える。コップが口につく瞬間、白い空気が湯気なのか、それとも彼女の吐息なのかわからなくなる。入り混じっているのに混じり気のない白が、僕はなんとなく好きだった。
「ね、私のために一曲作ってよ」
「無茶を言うね。言われてホイホイ曲を作れるなら、俺は今頃プロになってるよ」
「プロになるために仕事辞めたんでしょ」
「返す言葉もないね」
仕方なしにアコースティックギターを取り出す。K.ヤイリのアコースティックギターが潮風に触れる。きっと弦は錆びるだろう。
適当にA.D.E.Dとコードを繰り返し、歌メロを乗せていく。即興の割に、自然にメロディーが乗っていく。乱雑なアルペジオと、明らかに無駄なカッティング。最後にキーを一音上げて歌い切る。
「わー、凄いね」
奥川が覗き込んでくる。なんだか気恥ずかしかった。
「タイトルは?」
「渋谷のラブホテルとホームシックブルース」
「そりゃ紛れもなく、私のための歌だ」
奥川が愉快そうに笑う。
「でも歌って欲しいのは昔のことじゃなくて、今のことなんだよね」
「じゃあ、12月の海とホームシックブルース」
「どうしても家が恋しい訳だ」
「別にそういう訳でもないけどね」
言われてみればおかしな話だった。
「ホームシックブルースってなに?」
「ボブディランに聞いてくれ」
「ああ、あの歌下手おじさん?」
「そう、EXILEの方が上手いよ」
「でも私、あれからちょっと聴いてみたんだよね、歌下手おじさん。良い声してる」
「聴いたんだ、なにが好き?」
「ヘーイ、ミスタータンバリンマーンってやつが好き」
「ミスタータンバリンマンだね」
「そのまんまじゃん」
「君がそのまんまの部分を抜き出して歌っただけだよ」
なんとなく手持ち無沙汰で、手グセで適当なアルペジオを弾いていく。Cadd9、Am、FM7、G。いつか何かの曲に使った進行だったが、なにに使ったのかはさっぱり覚えていない。思いついては忘れていった沢山の作りかけのメロディーは何処に行ってしまったんだろう。
「ギターって楽しい?」
「楽しいよ」
「私も始めようかな」
「いいんじゃない」
僕らの上空を旋回していた大きな鳥が、歌うように去っていく。今でも、カモメとウミネコの違いがよくわからなかった。体温はすっかり奪われて、かじかんだ手でギターをしまった。このまま弾いていると、少し錆びた弦で指を切りそうだった。胸ポケットから取り出した煙草に火を付ける。冬の澄んだ空気の中では、音がクリアに聞こえる。普段は気にならない、爆ぜる音。白みを帯びた吐息と相まって、吐き出した煙はいつもよりも量が多い。もしも、と少しだけ考える。もしも僕の抱いたこのどうしようもない寂しさが煙だったら、きっとこの雲ひとつない青空が曇るくらいには白くて大きいだろう。
「俺は今でも、寂しそうに見える?」
「うん、見える。君はいつも寂しそうで、ズルい。大切にしている何かを失くしてしまったみたい」
僕にとって大切なものとはなんだろうか。大切なものもわからないから、寂しいのかもしれない。
「私は君のこと、結構好きだよ」
「そう」
「でも別に君の彼女にはならないし、なれない」
彼女が僕の肩に頭を預ける。
「そういう関係って、どう思う?なんとなくの寂しさを埋める為になんとなくの相手となんとなく一緒にいる事に、どれだけの意味があるんだろうね」
「なんでもかんでも意味が必要かな」
「きっと必要ないけど、でも多分、全部に意味があるよ」
トン、と煙草を叩き、半分あたりまで燃え尽きた灰が落ちる。落ちる途中に吹いた北風で、ふわっと舞っていく。そういえば、吐き出した煙はいったい何処まで行くんだろう。
「いつかその意味に気づけると良いね」
「俺たちはお互いに、その意味を気づかせる存在にはなれないんだろうね」
彼女は頷き、小さく笑う。
「ほら、また寂しそう」
そう言って彼女はトートバッグを漁る。取り出したのは、ハイネケンのビン2本。
「そんな君の為に、持ってきました。冬だしちゃんと冷えてるよ」
「君はきっと良いお母さんになるよ」
「良いお母さんはビールを持ってきません」
ピシャリと言う。
「缶切り持ってきた?」
「あ」
「正気かよ」
大丈夫だって、と彼女がビンの先の方を思い切り岩場に叩きつけ、割る。
「ほら、これで飲める」
続いて2本目のビンの先も叩き割り、1本を寄越す。変なところ豪快だった。緑色のビンが、陽の光に当たってキラキラと輝いている。
飲み口に出来るだけ口をつけないようにして飲む。高校生の頃の部活動で、スポーツドリンクを回し飲みしたことを思い出した。
「気をつけて飲まないと、あ、馬鹿だなあ」
彼女は割れた飲み口にそのまま口をつけて、唇を切っていた。
うーん、と少しだけ唸って、僕にキスをしようとする。
「血が出ているのに、そういうのは良くない。病気になる」
「君のそういう変な冷静さ、いただけないな」
「君のそういう変な破天荒さもどうかと」
思うけど、という言葉は、塞がれた唇のせいで飲み込まざるを得なかった。僕の口内にやすやすと侵入してきた舌をどうにかするのに忙しくて、今ならこのまま波に呑まれて死んでも良いと思った。正体不明の大きな鳥が鋭く鳴く。波の音。衣擦れの音。いろいろな音を差し置いても、静寂が一番煩かった。
「誰かの為に歌を作るなんて最低だと思ってたんだけどさ」
唇が離れた隙に言う。
「やってみると、案外悪くなかった。その相手が例え、不誠実な関係性でも」
「欲のままの行動が、不誠実とは思わないな」
それから、と人差し指を立てる。
「誰かの為じゃない歌なんて、多分ないよ」
僕と彼女は、決定的に合わない。この決定的な溝が僕と彼女の仲を今後取り持つのかもしれないという予感が少しだけあった。昔の恋人が僕の元から去る時に言ったセリフを思い出す。
「何から何まで同じだったらさ、一緒にいる意味なんてないよね」
「なに?」
「僕はこれからも君と会うんだろうなって思った。そういう話だよ」
「よろしい」
彼女がニッコリと笑う。
「ご飯食べに行こう。お腹すいちゃった」
「そうだね」


近くにあったうらぶれた食堂で、僕らは昼食をとった。鯖の味噌煮定食を注文した僕を、奥川は「おっさんくさい」と笑った。彼女が注文したのは唐揚げ定食だった。運ばれてきた定食を見て、これで680円は安いな、と思う。
定食屋のおばちゃんがニコニコしながら「デートかい?」と僕らに聞く。どう答えるべきか僕が考えあぐねている間に、彼女が「そうです!」と元気良く返事をした。
「どこから来たの?」
「東京です」
「あら、ご近所さんね。この時期は誰もこないから嬉しいわあ」
「冬に海に来る人、あんまりいないですもんね」
「そうなのよ」
眼前で繰り広げられるお喋りをぼんやりと眺める。おばちゃんは久しぶりの来客が楽しくて仕方ないらしかった。おばちゃんもお茶を飲みながら、僕らが食事をするのを眺めている。
「美味しい?」
「美味しいです」
「一人暮らしすると、魚食べる機会ってあんまりないんですよね」
「あら、一緒に住んでないの?」
「住んでないんですよ」
「付き合ってどれくらい?」
「1年くらいですかね」
ぽんぽんと口から出まかせが飛び出す彼女に笑いそうになる。

じゃあそろそろ、と腰をあげようとした時、ポツポツと雨が降り始めた。
「あら、遣らずの雨だわ」
「遣らずの雨?」
彼女が首をかしげる
「お客さんを帰したくない時に降る雨の事だよ」
「あら、よく知ってるわねお兄さん。若いのに」
「こういう日本語って好きなんですよ。綺麗で、風情があって」
そうよね、とおばちゃんが微笑む。
「洗い物してくるから、雨宿りでもしてな」
熱いコーヒーを置いて、おばちゃんが厨房の方に去っていく。コーヒーを飲みながら、ぼんやりと付けっ放しのテレビを眺める。品のないバラエティー番組が流れていた。
「こうしてるとさ」
彼女がポツリと言う。
「なんか、夫婦みたいじゃない?」
「そうかな」
「そうだよ。それも、老夫婦」
息を吹きかけてコーヒーを冷まそうとする彼女をまじまじと見つめる。老夫婦みたいとはどういう事なんだろう。
「惰性で眺めているテレビと熱いコーヒー。外からは雨の音が聞こえてさ。きっと老後ってこんな感じなんだろうな」
「いつも雨が降っている感じはするよね。老後って」
「うん。しばらくして雨が止んで、雲間から太陽の光が差し込むでしょ。そうしたら外に出て、寒さに震えながらスーパーに行くの。夕飯の買い出しだよ。君は日本酒を買おうとして、私はそれに合わせて魚を買う。焼き魚は匂いがつくから、味噌煮の方が良いかななんて考えながら」
訥々と呟く彼女の表情は、影になって見えない。テレビから一際大きな笑い声が聞こえる。飲み込んだコーヒーはひどく熱くて、真っ黒な液体が喉を通過する間に涙が出た。
「それで、並んで歩いて帰るの。君は日本酒を飲んでテレビを観てる。私は魚を焼いて、一緒に食べる。今は食後のコーヒーを飲みながら、一緒にテレビを観ている最中」
「老後がそんな風に美しいものだったら、生きていて良かったって思えるかな」
「きっと思えるよ。だって、生きていて良かったって思えない人生なんて、無かったのと同じだもの。私たちの人生はちゃんとここにあるから」
彼女が、彼女と僕の間の空間を指差して言う。
「だから、きっと私たちの老後は美しいものになるよ」
まっすぐにこちらを見る目に、吸い込まれそうだった。
「そういうのが欲しいんだよね。私はさ、幸せになりたくて、それだけなんだ」
「幸せになるために、みんなその過程を生きてるんじゃないかな」
「死ぬ事が幸せで、人生はその過程だって、君なら言いそう」
「言うかもしれない」
「死ぬ事が幸せって思う?」
「思った事もあったけど、今は死ぬ事が幸せにならないように生きてる」
「それで良いと思う。ほら見て」
指差された窓の外を見る。雨があがって、雲間から太陽の光が差し込んでいた。
「少しあるこうか」


真冬は夜が駆け足でやってくる。17:30ともなると辺りは真っ暗で、遠目からでは海と陸地の境界線は判別がつかない。
「東京にいたら時々忘れそうになるけど、夜って暗いんだね」
東京には当たり前にある街のネオンは無くて、街灯も極端に少ない。月明かりがなければ、恐ろしいほどの暗闇になってしまうだろう。
「東京は好き?」
ふと疑問に思って聞いてみる。
「好きだよ。生まれ育った街だし。みんな東京の人は冷たいって言うけど、そんな事ないし。どこも同じだよ。どこでも人は暖かいし、冷たい。東京の方が色んな物が揃うしね。君はどうせ東京が嫌いなんだろうけど」
「そうだね。俺は東京が嫌いだ。でも、田舎に住んでいたら、もしかしたら田舎が嫌いだったかもしれない」
「そうそう。隣の芝は青いし、ラーメン屋で隣の人が食べてるチャーハンは美味しそう」
「別の物が良く見えるというよりは、自分の物が悪く見える」
「それは君が根暗なだけだよ。ねえ」
「なに?」
「キスしてよ」
「どうして?」
「してほしいから」
「そういう気分じゃないんだ」
さざ波が遠くに聞こえる。鳥はもう鳴いていないが、北風は更に冷たくなっていた。
「気づいてる?君って、自分から私にキスした事ないんだよ」
「気づいてるよ」
「ズルいよね」
暗闇の中でも、彼女が口を尖らせているのがわかる。
「寂しそうなくせに、自分から寂しさを埋めようとはしないんだよ、君は」
「うん」
「だから、いつか私とずっと一緒にいても良いと思ったら、その時は君からキスをしてよ」
「わかった」
安易な約束は、約束とは呼ばないのかもしれない。そういう日が来るとは思えなかったが、僕はとりあえずで約束をした。
「待ってるからね。それから、君の夢は応援してるよ。でも」
「でも?」
「もしも君の夢が破れて、それで普通の幸せを手に入れたくなったら、その時は私を頼ってね」
頷く僕に、また彼女がキスをする。
じゃあ帰ろっか、と軽やかに言い、駆けていく。少し先まで真っ暗な夜道に、彼女の姿はあっという間に飲まれて消えた。僕はゆっくり前に進み、彼女の栗色の髪を追った。

『12月の海とホームシックブルース』